朽ち果てる農地 耕作放棄地はどこへ向かうのか?

朽ち果てる農地 耕作放棄地はどこへ向かうのか?

Where is the decaying agricultural land abandoned cultivated land going?

渡辺好明 (新潟食料農業大学学長) 2021年12月17日の記事を転載

「田は耕にあり」(耕者有其田)

 これは1911年に清朝を倒し中華民国を樹立した共和革命「辛亥革命」を率いた孫文のスローガンである。実際に耕作に従事する農業者に「農地に関する権利」(所有・利用)を与え、耕作をしない単なる地主から農地を取り返すというのである。

(porpeller/gettyimages)

耕地は耕作者に帰属するもの

 日本の「農地法」でも、第3条において、「農業経営に供すべき農地のすべてについて効率的に利用して耕作すると認められない場合」には、農地の利用権を取得できないとされている。農地は耕作者に帰属するという点で共通する。

 なお、「田」には、水田に限らず畠と畑を含む。畠は、いわゆる普通畑、常畠(じょうばた)を意味し、畑は、「焼き畑」のことである。日本の場合も、大宝律令以来、「五穀」(稲、麦、豆、黍、稗)を植える地をもって「田」としていた。(「田令」は金田章裕『景観からよむ日本の歴史』(岩波新書)を引用)。

 現在、農地といっても耕されていないものを広く「耕作放棄地」と称し、その大規模な存在が社会課題として語られ、この面積の減少が農業政策の大きな目標の一つのようにされている。しかし、この「耕作放棄地」という言葉の意味と実態を見ていくと、農業経営上ペイする形で復活・是正することは容易ではなく、また、現実的ではないだろう。実情をよく調査し、仕分けて対応することから、農業の未来を拓くことにつながるのだと考える。

「非・耕」と「不・耕」の農地の違い

 いわゆる農地と呼ばれるもののうち、耕作されていないものを、①耕作放棄地、②不作付地、③荒廃農地で再利用が可能なもの、④荒廃農地で再利用が不可能なものの4つのタイプに分類される。

 ①の耕作放棄地は、「以前耕地であったもので、過去1年以上作物を栽培せず、しかもこの数年の間に再び耕作する考えのない土地」のことを示す。この総面積を、「埼玉県や滋賀県の全面積に匹敵」などと表現され、問題提起されているが、あくまでも所者の意思に基づく「主観的な」数字である。

 ②の不作付地は、この1年作付けがなかったが、再開の意思があるものと言える。

 これに対し、③と④の荒廃農地は、「現に耕作に供されておらず、耕作の放棄により荒廃し、通常の農作業では作物の栽培が客観的に不可能となっている農地」とされており、市町村、農業委員会などの形状判断に基づく「客観的な」数字となる。

 ③は、立ち木を伐採したあとに残った切り株を取り除く抜根や、作物を栽培するために土地条件を改良・整備する整地、農地用に土地の区画や形質を変更する区画整理、土壌の性質を改善するため他の場所から耕土を運び入れる客土などにより、通常の農作業による耕作が可能となると見込まれる土地である。対して、④は、農地に復元するには物理的・コスト的な条件整備が難しく、農地として復元・継続利用ができないと見込まれるものである。

 直近の数字では、耕作放棄地は42万㌶(2015年農林業センサス)、荒廃農地は28万㌶(2020年農林業センサス)で、再利用可能9万㌶、再利用困難19万㌶と捉える。再び耕作する意思のない土地や復元・継続が難しい土地と、また耕作できるかもしれない土地、どちらに政策の重点を置いて持続的農業生産を行うかを考えなければならない。この際は、③の9万㌶に徹底的な重点・焦点を当てるべきではないか。

 ちなみに、先に紹介した「田令」では、①3年以上耕作されなければ「荒」(こう・常荒)とされ、②ある年に耕作されなかった田を「年荒」(ねんこう)といい、こちらは田に含まれている。どこか現在の定義に似通っている。

 しばらくの間「耕作放棄地42万㌶」が大きくプレーアップされたのは、「カロリーベース食料総合自給率の低さ」と同様に、予算要求、予算獲得のツールとしての主張だったのではないかと推測せざるを得ない。

 実際に、「主観」「客観」と調査数字の違いに説明がつかなくなったからか、実態に即してのものなのか、あれほど人口に膾炙していた「耕作放棄地」の数字は、このところ、次第にフェードアウトされ、20年センサスからは調査対象から外れている。

見るべき農地の「耕地利用率」

 農地に関する数字には、利用度を見たものもある。これは、建築物でいえば、「建ぺい率」と「容積率」といってもよい。同じ農地を1年間に何回(何作)利用するかで農産物の生産量・額も違ってくる。例えば、小松菜などの葉物野菜は1年間に農地を何回転もさせている。これを「耕地利用率」という。

 まず耕地利用率の過去・現在・将来目標である。1960年(昭和35年)の耕地利用率は133%、2020年は91%、30年の目標は104%である。昭和30年代までは、冬作(コメの裏作)の主流である麦が、小麦、大麦ともに100万㌧以上生産されて、6月は「麦秋」とも称される景色が見られた。

 唱歌『冬景色』にも「人は畑の麦を踏む……」と歌われ、食料自給率の確保にも貢献してきた。ところが、麦の輸入増大、コメの生産過剰による良質米、早生品種の作付けなどで、麦の収穫時期と田植えの時期の重複といった状況が起こり、農家の多くが二毛作から撤退した結果、冬の裏作は放棄され、コメの収穫が終わると農地には何も作物がない状況となった。

 良質米の過当競争、消耗戦の様相を見るにつけ、コメ政策のひずみがここに現れているような気がしている。〝麦秋ふたたび〟、そして、食料自給率の向上を強く願うものである。

必要となる農地の仕分けと徹底的活用という視点

 今後の農政の方向、とりわけ農地利用のあり方を考えるとき、持続的農業生産の重要4要素にたどり着く。それは、「土地(農地)」、「水」、「技術」、「担い手」である。そして、農地=農村=地域社会と結んでみると、農地の半分以上を占める水田の効率的利用と持続的生産が不可欠になる。

 わが国の水田は、最良の生産装置にして最高の環境装置である。地下水位を調節できる汎用水田であれば、需要に応じていかなる農産物の生産も可能だ。

 たとえば、コメを作ったとしても、人口・経済の成長する国々へと輸出拡大の機会は大きいし、国連の提唱する「持続可能な開発目標(SDGs)」に高順位で掲げられた8億人にも及ぶ飢餓の人々への貢献も可能になる。そして、わが国の食料自給率の向上、国土の健全な維持にも寄与できる。

 日本の農業は、長い時間をかけて、森林を切り拓き、海や川、湖沼を干拓し、埋め立てて「農地」を作ってきた。初天神の日に杉の苗を買うのは、「森林を破壊して田や畑にしてきたことへの償いの風習ではないか」と哲学者の梅原猛は指摘している。

 やや繰り返しにはなるが、自然を破壊して創られた農地、とくに水田では、開拓・開墾の一方で、コメの生産と水の管理を通じて、上下流をつなぐ「第二次的・安定的な自然環境」として、大きな循環系の中に完全に組み込まれている。流域治水、田んぼダム、そして何より、農業が利用する600億㌧の水は、その3分の2が、地下浸透や河川へ還元されて安定的に再利用されている。水田は、いわば「社会的資産」そのものである。

 30年近くも昔になるが、日米加EUの四極通商大臣会合において、「水田と水田農業の持つ環境機能」について日本側が強く主張したところ、カナダの大臣からは、「そんなに環境、環境というのなら、農業などせずにバッファローのエサ場にしたらよかろう(耕作しないことが環境にベスト)」との反論が出て、生育物を収穫するだけの収奪型農業と資源を循環させる循環型農業の違いを痛感させられた記憶を持っている。

カギは土地の一元管理か

 農地として耕作に利用しないものであれば、きちんと仕分けて違った政策を考える。理想は、土地利用の一元管理であり、税制その他の政策もこうした全体構想の下で行う時期に来たのかもしれない。

 なお、この場合でも、かつて見られた宅地並み課税を回避するためだけの栗の木の植樹とか、無理に開拓・開墾した土地をもとの森林に戻す「退耕還林」の名のもとに、本数だけを重視して、地下水の涵養などのエコシステムを無視した植林では話にならないので、そこは、よくよく考えて実行しなければならない。

渡辺好明 (新潟食料農業大学学長) 2021年12月17日の記事を転載